あくの猫  ⇔          


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思うのに。
自分を守るためには当然だ。自分だけが―――


‖木陰に消ゆ‖


ずっとずっと遠く、世界の果てにある広大無辺の草原、或いは空から聴こえてくる、あれは――
――お囃子の音。


***


 自分はあまり感情が顔に出ない人間だ。喜怒哀楽は勿論、感覚だとか疲れだとか云う肉体的なものも含め、他人には判りにくいのであろうと市丸ギンは思っている。
同時に、そんな自分の機微を察知できるのは幼い頃から傍にいた松本乱菊だけであると、またその逆も自分だけであろうと思っていた。

 己の誤認に気付かされたのはつい最近だ。

 突然自分たちの前に現れた幼い獅子。
年長者らをも飛び越え隊長格である市丸たちと同等の立場に立った少年――日番谷冬獅郎。
奇妙な寒さを覚えるほどに聡いその少年を見て、市丸は思わず同情してしまった。辛いだろうと。

 聡い、というのは決して幸福な事でもまして得な事でもない。但しこれはだからと云って不幸な事だというわけでもない。これらは等号や不等号で容易に括ってしまえる類のものではないのだ。
このことを、市丸は痛いほど知っていた。

 日番谷には見えてしまっているのだろう。『大人』の卑怯が。
その狡いも曖昧も脆弱も嘘吐きも、不釣合いな幼さ故にすべてを敏感に感じ取ってしまうのだろう。そして、相手の感情の起伏にも、この子は人一倍敏感だ。
そう、こちらが恐ろしくなるほど敏感なのだ。

 こんな子が、よく潰れずに立っている。
少々捻くれたところのある市丸からすれば、反抗心を剥き出しにして虚勢を張り続ける日番谷は羨ましいまでに純粋で小気味よくて、いっそ可愛らしかった。
そう、苛め抜いて壊してしまいたくなる程に。

(あれ、まだ来たはれへん…?)

 ちょうど午後六時ごろ。場所は夕涼みのお祭りから少しばかり離れた空き地。
誘った人間が待ち合わせぴったりの時間に来るというのは褒められた事ではないだろうが、自分はこれでも精一杯急いできたのだ。

(疲れた)

 ふうと一つ息を吐き、敷地の隅にある大きめの木の根元に腰を下ろす。濃密な太陽の残滓が薄闇に柔らかい時間をもたらす。

 本当に、疲れた。
藍染に、近々動き出す計画を聞かされた。何故こんなことになっているのか。遅かれ早かれ、確実に彼の人は傷つく。
いまさら後悔するほど身勝手ではない。それに日番谷ならば易々と殺されることもないだろう。

 それでも、この先自分を中心にして起こるであろう出来事を考えると精神を摩滅してしまう。疲れた。
だからもう考えない。

(遅いなァ…)

 ざわざわと揺れる木の影が睡魔を呼び寄せるのか。それとも音を立てて揺れているのは己が心で、眠気を誘うのはその崩壊を防ぐための自己防衛なのか。

 ふいに、背筋にぞわりと厭な感覚を覚えた。

(怖い)

 我ながら莫迦らしい。確かにそう思うのに、背を襲う寒気は増長していく。

 ああ、自分は駄目だ。
あの子に自分は重すぎる。自分は彼の嫌悪している『汚い人間』そのものだ。今度こそ彼は潰れてしまうかもしれない。
――否、そうなる前に彼は自分から離れていくだろう。
隣には、幼馴染のあの娘が寄り添うのか。

それは至極当然のことのように思う。彼にしてみれば今こそ可笑しな状況なのだ。本人が其れに気付けていないだけ。そうなるように立ち回ったつもりだ。


――そうか。

――駄目か。


***


仕事が思いの外長引いた。これではかなりの時間彼の人を待たせてしまった事になる。
どうだろう。まだ居るだろうか。

「…………。」

 適当に木に凭れて寝入っているその人を見て、何を思おうか。
青みがかった薄暗闇と不規則に揺れる木陰の相乗効果でその人――市丸の顔がより一層白く見える。
よく見れば眉が寄っている。心地良さ気とは言い難い表情である。

「…市丸。」

 日番谷の声に反応の気配はない。
何だか、一気に脱力してしまった。あんなに焦っていたのに。

――何を、

何を思っているのだろうか。

いつだって分からないのはこいつの思考だ。ただ、ある程度までは想像をつけられるようになった。複雑に見える事物というのは大抵が単純な構造をしているものだ。そしてそれは市丸においても言えることであったのだ。

市丸は極端だ。
関心を示すものには異様なまでに熱心だが、そうでないものに対しては驚くほど冷たい。冷たいどころかまるで見向きもしない。
そして、何より彼は気紛れだ。

その気紛れに振り回されるのは絶対に御免だ。
わかっているつもりなのだ。いずれ市丸はどういう形でか自分から離れていく。飽きがくるのか、それとも別の理由でか。それは分からないが、その時は確実に来る。


――だったら、俺だって。


そう思うのに。自分を守るためには当然だ。
自分だけが本気になるだなんて勘弁してくれ。なのに、
なのに……

「起きろよ、市丸……」

隣に腰をおろし少しだけ指を絡ませる。


どう足掻いても、傷が深いのは俺じゃないか――


また、影が濃くなった。

***

「日番谷はん」
「!」
「起きた?よう寝たはったけど。」
「い、いつから起きてたんだお前…」
「さあ?いつやったかな。」
「はあ!?っつか起こせよ!」
「まあまあ。…で、どうしはる?」

お祭り。

「…行く。」
「ほな、行こか。」
「………。」
「ん?聞こえへん…」
「手!!」
「どないしたんまったく…っはは…」
「っるさい!!!嫌ならもういい!」
「はいはい。気難しサンやなァ。」


それでも、まだこの手を離せないでいる。









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