あくの猫  ⇔          


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駄目だった。絶望した。とても――――


‖ 夜半の嵐 ‖


闇が恐ろしく綺麗な晩である。
じっとりと墨を染ませたような空には星屑が無秩序に散らばっている。
こんな夜は全てが透明にみえる。空気も月明りも、広げられた夜空さえ、透きとおって底が見えない。
夜の静寂に逆らうなどこの世のものに出来はしない。絶対の闇なのだ。

ある春の日の晩だった。いつもの様に行灯に小さな灯りを点してそんなとりとめの無い事を考えてだらだらとした思考に沈んでいた。
そうするとまたいつもの様に彼の人が静かに障子を開ける。そこで日番谷は現実にゆるゆると浮上する。

「おこんばんは。」
「おう。」

部屋の入り口にゆらりと立つ白い人影――市丸。彼の挨拶にぞんざいに返事を返し視線を向ける。

(なんだ?)

いつもの様に現れた市丸のはずなのに、明らかにいつもとは様子が違う。何が、とは言えないのだが確かにおかしい。
奇妙な違和感が日番谷の眉間に皺を寄す。

「どないしたん。変な顔。」
「いや…。入れば?寒くねェかよ。」
「ああ、大丈夫。ほなお邪魔します。」

その所作や言葉の端から感じられるこれは何なのだろう。
疲労。諦め。悲しい。哀しい。――怒り、か。
どれも当たっていてどれも当たってはいない。それだけが確かだった。

「なァ…日番谷はん?」
「なんだよ。」

市丸はいつの間にか日番谷を懐に抱えてその髪を弄っていた。
自分の髪は市丸のそれよりも青みがあるのだと日番谷は思う。同じ銀髪でも、市丸の銀髪は紫を綺麗に反射する。
その不思議な色は夜陰にあっても綺麗だ。暗闇に溶けながらにして決して消えはしない。
もしかしたら、市丸はそこに在るだけで夜に反抗できるのかもしれない。
この世界から独立し得るのかもしれない。

「んー…」
「?」
「しよ?」
「ッ、噛むな…。」

耳朶を甘噛みされて息を詰める。
そこに舌を這わされればまるで脳を侵食されるかのような錯覚に襲われる。しかし拒否の言葉は出てこない。
矢張りどうもおかしい。何が彼をこうさせている?

「なァ――」
「な、んだよ…。」
「ええ?」
「はァ?てめッ…いっつも勝手に、」
「言うて?」
「な、に――」
「言うて。」

懇願が命令に変わる。当の市丸は変わらず髪を梳き耳朶に悪戯している。

「日番谷はん。」
「――ッくそ…」

ここで拒否しては、いけない。普段とは違う。
多分、絶対にだめだ。でなければこいつの何かが、
何かが――壊れる。

「い、いよ…。」

まるで不可視の力に締め付けられているかの様な喉からやっとの思いで望まれた言葉を発する。
それでこいつの何が変わる事も無いだろうに。

「…うん。」
「市丸、おま――」
「おおきに、な。」

それ以上追求できなかった自分が、憎い。




***




最後の逢瀬はあの春の夜。
いつに無く激しかった行為。いつに無くやさしかった言葉。あの日の全てが、今も生々しく脳裏に浮かんでは日番谷を苛む。

そうだ。
刃を交えたあの晩も、恐ろしくなるほど透きとおっていた。

ああ。
凍てついた鎖でお前を捕らえたとき、どこかで安堵のような感情を抱いた。

ああ。もうこれで大丈夫だ。二度と離しはしない。大丈夫なんだ。
だがその声を無視して自分は叫んだ。諦めたくはなかったのか。

『終わりだ!!』

駄目だった。絶望した。とても終わらせることなど出来はしない。
奴はあの夜と同質なのだ。
奴の眼に底が見えないのはその真紅ゆえではなかったのだ。怖気が走るほどに澄みきって、だからその奥がどこまでも見えないのは当たり前だったのだ。
市丸の眼を直視して、白刃が迫ってきて、やっと解かった。

透明だから、何も見えなかったのか――。
透明だから、その全てが容赦なくこの身に迫るのか――。

「市丸。」

(一体いつからあんな眼で生きてたんだ。)

障子に映る影は一つらしい。この物思いを邪魔するものは無い。
優しく薄暗い水の底から掬い上げる、白い手はもう無い。いつの間にか無くしてしまった。
だから、ずうっと沈んでいられる。

「市丸――。」


行灯の油はまもなく尽きる。









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